細川ガラシャ辞世の句

細川ガラシャ辞世の句

今回は、平安時代から時代を下った和歌をご紹介。

もはや説明はいりませんね。もし詳しく知りたいという方は、youtubeなどでざっくり知ることができます。

私からもざっくりとご説明すると、

(人の一生をざっくりと説明できるような人生を歩んでいる人など、この世に1人もいないと私は思いますが。。)恐れ多くもざっくり行きます。

ご存知の方は飛ばしてください。

1563年 – 1600年8月25日 細川ガラシャ   

明智光秀(以下父)の主君・織田信長の発案により、たま15才で細川忠興(以下夫)と結婚。ちなみにとても美人だったといいます。19才の時、父がおこした本能寺の変があり、たま(ガラシャ)は謀反人の娘となります。しばらく幽閉されたのち、秀吉の取り成しで細川家の大坂屋敷に戻る。

たま23才。この頃、運命を変えるキリスト教と出会う。夫が九州へ出陣中、たまは教会へ通い詰める。夫は改宗をずっと反対していたが、たまはゴーイングマイウェイ。この時、豊臣秀吉もキリシタンを禁止中。しかし構わずか、あえてか自宅で洗礼を受ける。たまから、細川ガラシャへ。

1600年 夫が出陣中にたま(ガラシャ)は戦争の戦略に巻き込まれ、人質に取られそうになる。が、ガラシャは頑固拒否。細川屋敷に立て籠もる。なので敵兵である石田三成は細川屋敷の周りを取り囲む。

夫からは、「妻の名誉に危険が迫り来る時には亡き者に。人質になる事は禁止。」とされていた。

ガラシャはここで死を覚悟します。

『死に方』については分かれるところですが。キリスト教は自害禁止。

なのでガラシャは家老の小笠原秀清に命じ、槍で自らの体を突かせた。家老はガラシャの遺体が残らぬよう、屋敷に火薬を仕掛け火をつけ自刃。

もしくは、

ガラシャは神に祈りを捧げたあと、1人で自害。

どちらにせよ、細川ガラシャの命はここで終わります。

“散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ”

『散り時を心得てこそ この世の花は花であり 人は人である』

確かにあの時代は、死して守れる尊厳があったと思います。死をもって清く終わらす、事が主流の時代でした。だからこそ、この歌は悲しくも清く美しい歌だと思います。

時代は変わって、現代日本に死を持って尊厳とするような儀式や風潮はない。

だから今の時代の『散りどき』を死とするなら、それは天命を果たしきった時だと、私は思います。