圧倒的な美しさを前に 

圧倒的な美しい月

圧倒的な存在感を目の前にするとき。

それを素直に尊敬する反面、疎ましくもある。

どうして?

あえて投げかけてみようと思います。

〈紀貫之〉 

(「月が綺麗だよ

 と言って凡河内躬恒(おほしかふちのみつね)が訪ねて来た時に詠んだ歌。

かつ見れど うとくもあるかな 月影の いたらぬ里も あらじと思へば

『今宵の月明かりを美しいと思う反面、憎らしくもある。照らせない場所などないのだから』

凡河内躬恒が、あまりの月の美しさに貫之邸を訪れました。

その時に貫之が詠んだ歌が上記の歌です。

躬恒に誘われるように見上げたその月は、確かにとても美しい。

しかしながら疎ましく、憎らしい感じもする。

この月明かりはどの場所にも行くのだから。と歌っています。

この歌の解釈は読む人次第というところがあります。

どうして疎ましいのだろう?

自分たちのためだけに輝いているわけではない月に

人間の独占欲を歌っているという見方がほとんどです。

でもそうとも思えない含みも感じます。

街灯やビルの明かりなどない、今よりも純粋に真っ暗な夜空の中に

圧倒的な存在感で輝き浮かぶ月を前に、

その月明かりでどこでも照らせる事に、

どこへでも行ける月の光に

それを見上げている無力な人間との対比。

自分達を取り巻くいざこざや権力争い、妬み嫉みを、まるであざ笑っているかのような

ただ平等に降り注ぐ美しい月明かりを

疎ましく、憎らしさを感じる。

光はどこへでも行けるから。

という貫之が、独占欲を歌っていたのか

憧れのような羨ましさを歌っていたのか

またはそれ以外の感情があったのか

それは本人にしか分からないけれど

そこは和歌という作品であり文学であり哲学。

作者がどういう意図で読んだかを追求するもよし

聞き手が聞き手の感性で感じるままに感じるもよし。だと思います。

皆さんは、どこまでも照らせる月にどう感じますか?

という事で今日はここまで。